都市の雑学と超高層ビル、特集5・神戸


(歴史)

 江戸時代、神戸は廻船の発着地として発展し、江戸時代の末期になると、勝海舟が軍港の基地に定めた。

神戸港は1867(慶応3)年に開港した。神戸は、横浜とともに、城下町の伝統がない例外的な都市で、鎖国の

もとでも海外の影響を強く受けていた。

開港によって外国人居留地や雑居地ができ、都市の原形をなした。居留地は区画整備され、街路樹が植えら

れた。居留地こそ都市思想の見本であった。

 また兵庫(神戸)港は大坂奉行に管理されていたが、幕府の崩壊によって大阪から独立した。このことから

神戸は大阪に対して対立意識を持ったようだが、一方の横浜が江戸に対立意識を持たなかったのは、江戸崇

拝が強すぎたからだろう。その後、神戸は貿易港としてめざましい発展を遂げた。

(気質)

 神戸は、洋菓子の発祥地である。また、六甲山に日本最初のゴルフ場が造られ、日本で最初に生協が誕生

した。消費支出を所得で割った平均消費性向は全国一で、とくに女性の購買力が高い。神戸の気質は、新し

もの好きで開放的なため、転勤族には居心地のよい印象を与えている。その一方、大阪との対抗意識が強く、

「神戸に生まれてよかった」という人が圧倒的に多い。神戸の女性はプライドが高く、「大阪の女性はセンスが

ない」と椰楡する。超高層ビルも、1967年に日本最初の超高層ビルが東京・霞ヶ関に建設されたが、翌年に

は、神戸にも超高層ビル(商工貿易センタービル)が建設されている。

 神戸には、自分の店で製造・販売する町のパン屋が多くある。とりわけ神戸市のパンの購入量は年間50s

余りで長年・全国トップである。年間の購入金額も日本人の主食である米を抜いた。神戸は港町で昔から外国

人が多く、彼らを満足させるおいしい店が生まれ、それを食べた日本人の間にもパン食が広がったと推測される

。そのためか、大手製パンメーカーは参入しにくいエリアとなっている。

 都市の開発手法も、先端を行き、六甲アイランド、ポートアイランドなどの埋め立て地に、近未来的な臨海都

市が造られ、そこに多くの超高層ビルが建設された。この手法は、東京・臨海副都心、横浜・みなとみらい、

などに受け継がれている。

(阪急と阪神文化)

阪神電車南部を走つているが、阪急は北部を走つている。神戸と大阪を緒ぶ二大私鉄が、人びとの間に対

立的気分を形成した。二つの私鉄の間をJR線が走っているが、このJRを境に、北部が阪急、南部が阪神と

いわれている。

阪神はもともと土地持ちと酒屋の土着勢力がつくった文化である。それに対し、阪急は小林一三に代表される

新勢力者がつくった文化である。大阪の金持ちは近世以来培ってきた財力で大阪を復興し、産業の町にして

しまった。そして自分たちが住む場所として芦屋、西宮を選んだ。これが大阪の住宅地としての地盤沈下の

始まりであった。大阪は、都市機能のみが集積し、商業と工業だけの町になってしまった。

 特に、芦屋は日本一の高級住宅地となり、一人当たりの所得が日本一である。その中でも最も山手にある

六麓荘は、1929(昭和4)年に開発され東洋一をめざした。開発規模は30万平方mで、最低でも1000平方m

、196区画され、敷地3000平方mの豪邸も多くある。標高100m〜200m付近に位置し、自然にも恵まれ、高

所ほど洋館が多く存在し、当時から電柱の地中化が行われた。

 1998(平成10)年4月、世界一の吊り橘・明石海峡大橋が開通し、近畿圏と四国が直結した。さらに1999(平

成11)年春には広島と愛媛を結ぶ西瀬戸自動車道(瀬戸内しまなみ海遺)が全通し、1988(昭和63)年に開通し

た瀬戸大橋と合わせ、瀬戸内海地域が一体となる三架橋時代が到来した。

公募の結果、明石海峡大橋の愛称は「パールブリッジ」と決まった。神戸が全国の真珠の80%が集まる一大集

積地であることや、淡路島が養殖真珠の核の産地で、市場の60%のシェアを占めることなどが決定の理由とな

った。

淡路島には国際会議場や野外劇場などが建設され、その施設に隣接するホテルにサッカー・ワールドカップで

イングランドのベッカム選手が滞在し話題になり、同北淡町では阪神大震災で有名になった野島断層を保存す

る記念公園も建設された。

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