都市の雑学と超高層ビル・特集2(大阪)


(歴史)

 大阪は都市として1000年の歴史を持ち、江戸時代から、たえず東京と比較され、その特殊性が論じられて

きた。豊臣秀吉が大阪に着目して以来、物流の最大拠点として栄え、大阪なくして江戸経済は成立しなかった

。全国の物資が大阪に集められ、市が立ち、値がつき・再び諸国に送られた。北前船が回船する瀬戸内海、日

本海、太平洋の海上物流の拠点が大阪であった。

その後、徳川家康がこの仕組みを継承した結果、大阪は商人の町となり、大衆文化が興隆した。幕府の崩

壊後、金融・海運は大阪から姿を消したが、'大衆は秀吉の功績を高く評価している。それに比べて徳川家康

に対してはアンチ派が多く、「家康をののしる会」なども結成されている。

(文化)

商都として栄えた大阪だが、商売における独特の慣習などがあって・他府県の人間から見ればなかなか馴染

めないというのが本音である。特に関東から以北では、都市圏の転勤希望先で、最も人気がないのは大阪とい

われる。東京以北の人は大阪転勤と聞くと、「もはやこれまで」と嘆き、北海道ともなれば、大阪転勤をめぐっ

て家族会議が開催されるという。ところが大阪に住むと、「案外いい町だ」と評価し、さらに住み続けると、「あた

たかい町だ」とほめるようになるらしい。

他府県出身のビジネスマンが大阪にやってきて最初に悩むのは・商売の違いである。物事がスパッと決まら

ない。まるでやりとりを楽しんでいるようなところがある。このあたりの呼吸が・他府県出身のビジネスマンには

不可解な部分と映るようである。

 「おんどれ」「どあほ」「ガキ」「いてこましたろか」「何さらすねん」など大阪の下町言葉が飛び交っていたら、

まるで無法地帯に紛れ込んだような気持ちになり、気の弱い人なら震えるかもしれない。河内地方にな

ると、言葉はいっそう荒っぽくなる。相子をとことん罵倒しているようだが、これが大阪庶民の日常会話であり、

特にヤクザ映画では、迫力ある大阪弁が定番である。

東京に出張する場合、新幹線が横浜を過ぎ、東京駅が近づくと、ゆるんでいたネクタイを締め直し、背筋をビ

シッと伸ばす仕草をする。ところが大阪に出張する場合は・少しネクタイをゆるめ・何となくダラッとしてしまう。

また関西以外の他府県から東京にくると、方言にコンプレックスを感じることがあるが、大阪の場合は、あまり

コンプレックスは感じない。東京では身がまえるのに対して、大阪ではそれぞれの土地にいた姿のまま入って

くる。大阪は何でも吸収してしまう、雑多で巨大な下町である。

地名の省略呼称も上本町6丁目は「上六」、天神橋6丁目は「天六」・谷町筋はすべて数字がついているから

、「谷九」とか「谷六」となる。また次のような言葉もある。「冷コー」(アイスコーヒー)、「マクド」(マクドナルド)、「モ

スバ」(モスバーガー)、「ミスド」(ミスタードーナッ)などである。

「大阪人が2人よれば漫才になる」といわれるほど、大阪庶民の笑いに対する探求心は旺盛である。

また、大阪は、東京より歩くスピードが速い。大阪駅の交差点では、以前、信号待ち時間の電光掲示板が備

え付けられているほどである。歩行者の信号無視の割合も高い。地下鉄御堂筋線のプラットホームには、次・

次々電車の通過駅と到着表示板が設置されている。ちなみにせっかちのことを、大阪では「いらち」という。

大阪は違法駐車が実に多く、たえず警察といたちごっこをしているが、大阪の人間はこれを楽しんでいる風も

ある。とりわけ集金日にあたる五・十日は大混乱の様相を呈する。これは「ちょっとくらい、ええやんか」の発想

がべ一スにある。さらにいえば、集団生活のルールが欠落しているというより、法律よりも人間同士のつながり

を重んじる土地柄であることに起因している。

(東京嫌い)

「東京に魅力を感じるか」の質問に対して、大阪では80%以上が感じないと答える。また「親しみが持てる府県

はどこか」の質問に対しては、圧倒的に近場の府県を答える。

他県の人に大阪のイメージをたずねると、がめつい、けち、活動的・創意工夫がうまい、ユーモアに富むの順で

ある。超高層ビルなどをみても、個性的で工夫のしているビルが多い。

アイデアに富んだ大阪人は、さまざまな商品や商売を誕生させてきた。たとえば、サラ金・カラオケ・プレハブ・

ビアガーデン・住宅ローン・パチンコなど、すべて大阪が発祥の地である。

大阪の都市形成は、阪急の開発、千里ニュータウンと万博を抜きに語れない。その起爆剤がなければ、

大阪の都市圏拡大と中枢機能の持続はなかった。終戦後、紡績工場が林立し、先進農地が広がる南大阪に

比べ、北大阪は都市基盤が貧弱で、「南厚北薄」といわれていた。それが干里丘陵の開発によって「北高南低

」と逆転した。わが国で最初に開発された、理想的な街づくりをめざした大規模団地である。ニュータ.ウンは

の後、全国に広がっていった。また、阪急・阪神の梅田開発は、特筆すべきで超高層ビルの建設に先導的な

役割をしている。

「中小企業の町」として知られる東大阪市には・革新的な企業が数多く存在する。バブル経済崩壊の影響を受

けながら、東大阪市は生き残りに成功した。現在は8000を超える工場が操業し、国内外の市場でトップシェア

を獲得している企業も多い。

16世紀に日本にやってきたフランシスコ・ザビエルは、「堺は日本の最も富める港にして、国内の金銀の大部

分が集まる処」と記している。まさに堺は「東洋のベニス」であった。町人が年貢納人を請け負って経済力を

つけ、やがて会合衆と呼ばれる倉庫業を営む豪商が町を治める自治都市へと変貌していった。

(二眼レフ)

経済力からすれば東京が大阪にかなり勝っているが、大阪は決して東京ナイズすべきではない。文化が一つ

に同化すれば、国は崩壊するからだ。「東京・大阪二眼レフ論」は、まさにそのことを指摘している。21世紀に

なっても、大阪は独自の文化を保ちながら経済の発展に貢献することが重要である。防災面でも重要である。

日本の物流大動脈の基点である大阪は、ほとんど封建制度の影響を受けなかっためずらしい地域である。江

戸時代の大阪の人口は30〜40万人で、武士の人口は多く見積もっても1万人程度であった。人口100万人の

江戸では約50%が武土であったごとからすれば極端に少ない。そのため、大阪では、武士が商人の気風に染

まり、利益に敏感になったと見られる。

元禄時代、大阪商人は全国的に物流を押さえ、大名貸などで各藩の財政を掌握し、お奉行をはじめとする武

土がいなくても商いに困らないし、実質的には幕府や大名を牛耳っていた。要するに、大阪には、いまでいう

おまわりさんが皆無であった。

街道もない。宿場町もない。城はあるが城下町はない。お上がいないから、お上など鼻にもかけない自由な気

風が生まれたといえる。上下が厳しくなく、管理されず、自由に生きることができる社会 をめざした都市、それが

大阪である。

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